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 第10回大会のご報告

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「ことばと学びをひらく会」の展望
 「ことばと学びをひらく会」は,全国学力・学習状況調査が始まった平成19年に,第1回研究大会を開催しました。その当時と比べても,子どもを取り巻く言語環境はさまざまに変わってきているといえるでしょう。今年度中には,新しい学習指導要領の告示が予定されています。第10回研究大会という節目にあたり,ことばの教育の今後の展望を考えていきます。
本会の歩みと「アクティブ・ラーニング」  
本会の歩みと「アクティブ・ラーニング」
 一昨年11月の「諮問」を受け,昨年10月,さっそく本会でも「アクティブ・ラーニング」を取り上げました。その頃,Amazonで「アクティブ・ラーニング」を冠する書籍を検索すると,20冊くらいでした。それが,昨日の段階ではおよそ420冊にもなっています。これはいわば,ビッグバンといえる状況ではないでしょうか。
 しかし,アクティブ・ラーニングその考え方自体は,必ずしも新しく出てきたわけではありません。言語活動,主体的であること,対話的であること,対象と関わること,そのようなものがアクティブ・ラーニングの内実だとするならば,本会が第1回からずっと取り組んできた連続的なテーマだといえます。
 今求められる課題の一つとしては,言語活動のこれまでの蓄積を整理し,アクティブ・ラーニングにつなげていくということではないでしょうか。またその一方,本会が10年間取り組んできたということは,その実現はそれほど簡単なことではないともいえるのでしょう。

循環する「アクティブ・ラーニング」  
循環する「アクティブ・ラーニング」
 国語教育には,時代を隔てて循環する理論が現れる傾向があります。例えば,昭和20年代の単元学習と平成元年の新しい学力観,昭和40年代の話し言葉教育論と平成14年の文化審議会答申,昭和40年代の学習指導要領と平成17年の読解力向上プログラム,これらは,時を隔てても同じような理念として現れてきているものです。
 「アクティブ・ラーニング」についても,明治時代からその萌芽は見られました。今でいう奈良女子大学附属中学校にいた木下竹次の著書『学習原論』(大正12)には,既に「アクティブ・ラーニング」の考え方のほとんどすべてが出ているといっても過言ではありません。
 現在,大学教育におけるアクティブ・ラーニングには三つの懸念があるといわれています。
  1. 他人に作業をさせて自分は遊んでいるような「フリーライダー」の出現
  2. 集団で活動していてもどうも沈滞してしまうこと
  3. 活発に活動しているかのように見えるけれども,実際に思考活動を促してはいないこと
 この三つと全く同じ懸念があるということを,当時の木下竹次も言っているのです。言い換えれば,これは時を隔てても変わらない「アクティブ・ラーニング」の課題だといえるのでしょう。

「アクティブ・ラーニング」を手応えのあるものにするために  
「アクティブ・ラーニング」を手応えのあるものにするために
 アクティブ・ラーニングの課題として,現代においても,木下竹次が指摘したのと同じように,教師の力量こそが大切になってくるといわれています。しかし,その力量をどう育てるかということには確たる答えが出ていません。教師自身が“アクティブ・ラーナー”であることが大切だといわれますが,では実際にどのようにすればよいのでしょうか。
 2500年前の『論語』で説かれていることと,今の問題は少し似ているように思われます。
 「之を如何せん,之を如何せんと曰はざる者は,吾之を如何ともすることなきのみ」という言葉があります。「如何せん」すなわち,「どうしよう,どうしよう」という学習の構えをもっている人でなければ,孔子としても手の施しようがないといっているのです。荻生徂徠は,その「どうしよう」という構えこそが大切であると説いていますが,その学び手の側の構えについては,午前中のシンポジウムで,鹿毛先生,藤森先生が徹底的に議論してくださいました。
 また,荻生徂徠とは別の流派は,先の「論語」の言葉について,「之」ということこそが大切だといっています。「之」すなわち,「何をどうすればよいのか」を問題にするということです。その延長線上にあるのが,午前中の京野先生の指摘だったと思います。
 これからの「アクティブ・ラーニング」を手応えのあるものにするために,「之」と「如何せん」,その両者をどのように捉える必要があるのかということを明らかにしたのが,午前中のシンポジウムでの議論であり,今後私たちが突き詰めていく課題なのだと思います。