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 第9回大会のご報告

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見えないものを見る 動詞を使って
 中村桂子先生は,地球上の生きものは皆38億年の歴史をもつ仲間であるということを基本に研究する「生命誌(Biohistory)」の提唱者でいらっしゃいます。
 科学を通して生きものを見つめていくと,いのちとは何か,こころとは何かなどの難しい問いが次々出てくるという中村先生。本講演では,いのちという目に見えないものについて,「食べる」「笑う」などの動詞を手掛かりに考えていくということについてお話しいただきました。
はじめに―まど・みちおさんに教わったこと  
はじめに ―― まど・みちおさんに教わったこと
 思い返してみますと,私は60年ぐらいの間,生きもののことを考えてきました。そこで,命について語ってほしいとご依頼を受けたとき,生きものは見えるけれど,命は見えないなと思ったものですから,このような題にしました。
 私はまど・みちおさんが大好きです。まどさんも生命誌にとても関心をもってくださって,よくお手紙のやり取りをしました。まどさんがお書きになった『百歳日記』の中で,これ以上の言葉はないと思う言葉があります。「世の中に『?』と『!』と両方あればほかにはもう何もいらん」です。私たちは,洋服がほしい,おいしいものが食べたいと,まだ世俗っぽいところがあります。何もいらないとまではちょっと言いきれません。でも,よく考えてみたら,この二つほど生きていくうえで大事なことはありません。これをもっていさえすれば,生き生きと,生きられるのではないでしょうか。いつも,「何だろう?」と問いをもつこと,そして,いつも,「すごいな! 面白いな!」と驚く気持ち,この二つが生きていくことの基本と考える,さすが,まどさんだなと思います。

子どもという生きものに対して
 問いの固まりは何かと考えたら,子どもです。なぜ? どうして? こんなことあるの? という「?」の固まりが,子どもです。
 皆さんは大人として,子どもをどう育てたいかと考えていらっしゃるのではないでしょうか。まどさんがお思いになったように,「?」と「!」がいちばん大事なのだとすれば,明らかにそれを子どもはもっているのですから,それを失わせないようにすることが,私たち大人の役目だと思うのです。

「ぞうさん」に込められた思い  
「ぞうさん」に込められた思い
 皆さんご存じの「ぞうさん」の詩。私は生物学者ですから,「ぞうさん,お鼻が長いのね」に対して,「そうよ,母さんも長いのよ」と言ったことを,遺伝と考えます。お父さん,お母さんがいて,僕もそうなんだよと。しかし,まどさんはそのとおりだけれど,もう一つあるとおっしゃいました。
 鼻が長いということは,他の動物からするとちょっと変わっていますね。だから,きっと,お前,鼻長いな,おかしいなっていじめられたに違いないと。いじめられて,とても悲しかったけれど,それでしょぼんとしてしまわずに,「お母さんだって長いんだぜ」って言った,その気持ちを大事にしようと「ぞうさん」を書いたのだそうです。お母さんとつながっているということと同時に,みんなと違っていることは大したことじゃないと言いたくて書いた,とおっしゃっていました。短い詩の中ですけれども,本当に優しい,とても大事なことを書いていらっしゃると思います。

子どもは縄文時代から変わっていない  
子どもは縄文時代から変わっていない
 子どもは,「生きる」ということから見たら,本質的で大事にしていかなければならないものをもっています。子どもは,昔からいます。縄文時代の子どもは,森を駆け回っていたでしょう。そこで上手に生きている子がいい子どもだねと大人から言われていたと思うのです。現代の子どもと縄文時代の子どもは,生きものとしては,まったく同じです。違うのは,生きている時代です。
 今,私たちは,明らかに科学技術時代にいます。『科学技術時代の子どもたち』(岩波書店)という本を書きました。私は,子どもは専門ではないので,本を書くなど考えたこともありませんでしたが,心理学者の故・河合隼雄先生から,とにかく今,子どものことを考えようと思ったら,科学,科学技術を抜きに考えられないでしょう,と詰め寄られました(笑)。あなたが科学や科学技術のことを考え,そして生きるということを考えているのだったら,その気持ちで子どものことを考えないのはずるいと叱られまして,確かにそうだと思って書いた本です。いざ書いてみたら,私にとっていちばん大事と言ってもよい本になりました。

『科学技術時代の子どもたち』について  
『科学技術時代の子どもたち』について
 今,子どものことを考えるとしたら,今の時代が子どもにとってどうなのかということを考えなければなりません。それをどうやって考えるかというときに,スウェーデンのリンドグレーンが書いた「やかまし村」シリーズを思い出しました。この中に出てくる子どもたちが,私の思う子どもらしい子どもなのです。そこで,『科学技術時代の子どもたち』では,「やかまし村」の子どもと,今の子どもとを比べながら,
  • 人が「産まれる」ということ
  • 人との関係の中で「成長する」こと
  • 生きていくということの基本に,「遊ぶ」,「学ぶ」,「働く」があること
  • 生きていることはプロセスそのもの
  • 子どもたちは見えないものを考えることが大好き
  • 老人と子どもとの関係
という六つのテーマについて,今,何が問題なのかという私の考えを書きました。科学技術時代が子どもたちに対してどういうことをしているかを,もっと考えなければならないと思っています。
 実は,谷川俊太郎さんが,この本に詩をつけてくださいました。
 ……「よるのこどもがひとりたってる/ぎもんふのかたちして」……「ひるのこどもがスキップしていく/かんたんふのかたちして」……
 私の本を読んで,まさに,疑問符の形と,感嘆符の形が抽出できると書いてくださった。まどさんと谷川さんがおっしゃったことが,全く同じだったということ,これは偶然ではないと思います。
 この本,読んでいただけるとありがたく思います。

命が大事というけれど
 生きものの研究を長い間続けてきた立場で,「?」と「!」について考えながら,行ってきた,小さな活動のお話を聞いてください。
 科学技術時代の子どもたちのことを考えますと,命が大事にされていないということがわかってきました。生命尊重,命が大事だというのは,誰も反対しません。しかし,生命尊重,生命尊重と,口でいくら騒いでみても,決して命を大事にする社会になっていかないというのは,世の中を見ているととてもよくわかります。
 今日は,「動詞で考える」ということを掲げました。子どもや私たち自身だけでなく,いろいろな小さな生きものたち――チョウ,クモ,イモリなど――が,「生きている」ということ,どうやって生きているのかということをよく「見つめる」こと,そしてそこから,「生きる」ってどういうことなんだろうと「考える」こと,それしか私にはできないと考えながら,今,「生命誌」という仕事(研究)をしています。

「生命誌」という考え方
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「生命誌」という考え方
 科学がはっきり示しているように,人間は生きもので,自然の一部なのです。このことを具体的に示したのがこの「生命誌絵巻」(左図参照)です。地球上には,数千万種類というさまざまな生きものがいます。これが,「生きている」ということの基本です。「多様性」があり,その一つ一つが素晴らしいというのが,「生きている」の基本です。
 科学は,「いっぱいいるね,それぞれ面白いね」と言って終わらせず,こんなにさまざまだけれども,どの生きものも全て細胞でできている,そしてその中にはDNAが入っているという共通性を明らかにしました。
 私たちは,進化という現象を知っていますので,そこから地球上にいる生きものの全ては祖先を一つにしているとも考えます。少なくとも38億年前の地球の海には,祖先細胞がいたということがわかっています。
 ふつう,生きものの進化を示すときは,バクテリアは下にし,だんだんと立派な生きものになって,人間をいちばん上にします。しかし,「生命誌絵巻」では,祖先からの距離はどの生きものも全く同じです。地球上の全ての生きものは,38億年という時間を体の中にもっているという意味では全く同じなので,どちらが上,どちらが下ということはありません。38億年という歴史を共有して,この地球上にみんなでいっしょに生きているということが,生きものであるということの実態です。
 当たり前ですが,人間もその一つです。先ほど,人間は生きもので,自然の一部だと言ったのは,こういう意味です。科学技術時代の人間は,自分だけは特別と思っていないでしょうか。もちろん,自動車に乗り,学校を作り,と他の生きものにはできないことができます。しかしいっぽう,イモリは体を切られても,また再生しますが,それは人間にはできません。それぞれの生きものがそれぞれの特徴をもって生きているのです。科学技術もその一つと考え,人間も生きものであることを忘れてはならないと思います。

チョウは人間と同じつくりをもっている  
チョウは人間と同じつくりをもっている
 例を一つお話しします。この写真は,ナミアゲハがみかんの葉に卵を産んでいるところです。チョウの幼虫は偏食で,モンシロチョウはキャベツ,ナミアゲハはかんきつ類に産卵しなければなりません。幼虫は,決まった葉でしか育ちませんから,お母さんはどうしてもみかんの葉を探して産まなければならないのです。
 そんなことがなぜできるのかということが,「?」でした。調べた結果,大事なのは前脚だということがわかりました。前脚で葉をたたいて傷をつけ,そこから出てきた成分の味を前脚にある感覚毛で見ているのです。そして,前脚で味を見るこの細胞のつくりが,私たちの舌にある味蕾と同じなのです。同じものを使っているということは,チョウと人間は同じ仲間ということを如実に示しています。
 ところが,私たちは,科学技術社会の中にいるために,人間が生きもので,自然の一部だなという当たり前のことを忘れています。ですから,日常の言葉で「自動車を作る」と同じように「お米を作る」「子どもをつくる」と言います。自動車を作るのは,設計図をもとに作るということで当たり前です。お米は作れません。稲という生きものを「育てる」のです。子どもは「授かる」ものです。

機械から見たら,生きものはマイナス
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機械から見たら,生きものはマイナス
 
機械から見たら,生きものはマイナス
 稲を育てるには,5月に植えて,秋に収穫です。自動車は,隣の工場よりもうちのほうが早く作れますが,お米は皆,春に植えて秋に収穫です。効率が悪いということになります。こんな生産性の悪いことをしているよりも,自動車を売ったお金で食べものを買うほうがいいのではないかという考えが出てきます。
 生きものまで機械のように見ているのです。機械の特徴は,「利便性」と「均一性」です。便利にして,みんな同じにすることが大事なこととされています。便利というのは,早くできて,手が抜けて,思い通りになるということです。
 しかし,生きものは,「継続性」「多様性」が基本です。「便利」は,生きものにはできません。人間は人間として育つ,稲は稲として育つ,その時間が必要です。手が掛かります。子どもは,ちゃんと手を掛けなければいけません。それで一生懸命に手を掛けたら思い通りになるかというと,そうはならない。機械と比べたら,これらは全部マイナスです。ですから,生きものはマイナスになってしまうのです。生きものの側から考えたら,ゆっくり時間をかけて,そのプロセスを楽しんだ方がいいでしょう。花だって,子どもだって,手を掛けることこそ楽しいではありませんか。ときどき思いがけないことが起こる楽しみもあります。しかし,今の社会では,早くできなくて,手が抜けなくて,思い通りにできないのは,全部悪いとされてしまっています。
 また,コンピューターのように,新しいもの,何でも知っているものがよいとされています。生きものは味の細胞で見たように古くからのものを使い続けています。どれだけの生きものがいるかさえ,まだわかっていません。知らないことだらけです。機械から見たら,これも全てマイナスかもしれませんが,私は,こちらを大事にする新しい生き方こそ今必要と思っています。

地球環境を考える
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地球環境を考える
 地球環境問題を考える場合にも,私たち自身が自然であるということがとても大事です。私たちも自然なのですから,自然を壊す行為は,私たち自身も壊すに決まっています。つまり,地球環境問題を起こしている生き方は,体も心も悲鳴を上げる状況を起こしているのです。
 心は見えませんが,大事なのは「時間」と「関係」だと考えます。「忙」という字は,心を亡くすと書きます。生きものにとっては,時間と関係がとても大事で,それらがなくなると心が失われるというのは,事実でしょう。
 東日本大震災で私にとっていちばんショックだったのは,科学技術や金融市場に象徴される私たちの社会を自然が壊し,そこに原子力発電所があったために,最も大きな形で私たち自身を壊す影響が出たことでした。通常の地震や津波だったら,今頃はもう回復できていたでしょう。けれども,いまだに回復ができないのは,私たちが科学技術を持っていて,そのことで災害の力が増幅されるということが起きてしまっているからです。そのことを考えていかなければなりません。

小学校農業科の取り組み  
小学校農業科の取り組み
 そこで何ができるかと考え,子どもとの関わりの中で,一つ取り組んでいることがあります。子どもたちに,本当に自分が生きものであり,自然の一部であると体験してもらうことです。喜多方市小学校農業科をお手伝いしています。時間割の中に農業の時間があるのです。ときどき田んぼへ行くとか,稲刈りに行くというのではなく,一年中,農業が子どもたちの中にある,それが農業科です。きっかけを私が作りました。多くの人が,今,子どもたちにとっていちばん大事な教育は,コンピューターと英語だという議論をしていたとき,それも大事だけれど,畑のカブの方が大事じゃないかとつぶやいたら,喜多方の市長さんが農業を取り入れてくださったのです。
 具体的な姿を子どもたちの作文でお伝えします。
 3年生「僕は枝豆を作りました。シャワーのような水やりがとても楽しかったです。枝豆に大きくなれよと話しかけました。……」この子にとっては,枝豆は完璧に生きものです。しかも「大きくなれよ」と話しかけているのです。
 5年生「原発事故のせいで……せっかく農家の人が苦労して野菜や米を作ったのに出荷停止になったりしたニュースを何回も見ました。……喜多方のお米は安全ですごくおいしいです。……福島県来る人増えるといいな……」非常に高い社会意識です。この子は,もう身に染みてわかったと思います。
 6年生「私たちが育てたあずきを使って赤飯をつくり,一人暮らしのおじいさんやおばあさんにくばりました。泣いて喜んでくれた人もいて……」ここで高齢化社会がどうの,地域社会がどうのと言わなくても,この子は,それがよくわかったと思います。
 この子たちを見ていて,本当に生きる力があると思うのです。自分で考えて行動するので交渉能力が出てきます。自分ができないときに,あれして,こうやって,ああやってということをいろいろと考えて相談して進めていかなければなりませんから,表現能力やコミュニケーション能力がつきます。これこそが,生きる力だと思うのです。

『セロ弾きのゴーシュ』の舞台  
『セロ弾きのゴーシュ』の舞台
 3.11の後,「生きる」ということを具体的に考えようと取り組んだものの一つに,『セロ弾きのゴーシュ』の舞台があります。
 ご存じのように,ゴーシュは町の映画館で,セロを弾いているのですが,下手くそで,毎日怒られては,しょぼんとして森の水車小屋へ帰ります。今回初めて気づいたのですが,帰ると,必ず,ゴーシュはお水をゴクゴク飲む,そういう描写があります。この中で描かれている町という社会は,今日お話しした競争の激しい科学技術社会,象徴的に言うと「乾いた社会」です。そして,森の水車小屋の,自然の「湿った社会」の中へ帰っていく儀式として,彼はゴクゴクお水を飲むのだと,私が勝手に読みました。そこでは,ネコ,カッコウ,タヌキ,ネズミが来て,いろいろな関係をもちます。自然社会も決して優しくはないので,悪口を言われるなどさまざまなことを経験しながら,ゴーシュは気がつかないうちに命の音を身につけていきます。そして,最後,6日目になった晩,映画館で,ゴーシュたちは,第6交響曲――ベートーヴェンの『田園』にしましたが――を弾くと,拍手喝采。ゴーシュはアンコール曲を弾くというのが,終わりの場面です。
 湿った自然の社会の中で命の音をもらって,それで演奏したからこそ,乾いた社会の人も心を動かされたのだと思います。生命誌研究を通じて,今の乾いた社会が,「命」に気がついてくれて,動いてくれたら,うれしいと思いながら仕事をしているのですがなかなか難しい。ゴーシュには,それができたのです。
 私が朗読を担当し,友人の人形劇師やチェリスト,ピアニストといっしょに舞台をつくりました。多くの方に評価していただき,国際交流基金の一つの活動として,ビールで有名なチェコのピルゼンで開催された人形劇フェスティバルに招待されました。

いちばん大事にしている動詞は「愛づる」  
いちばん大事にしている動詞は「愛づる」
 「生命」と言うのではなく,「生きている」とか,「生きる」とか,さまざまな動詞で考えていくことで,具体的に考えられるということを学びました。その中で,いちばん大事にしている動詞が「愛づる」です。『虫愛づる姫君』の「愛づる」です。虫愛づる姫君は,およそ1000年前の京都にいらした大納言のお姫様です。みんな,チョウはかわいい,毛虫は嫌だと言います。でも,このお姫様は,「チョウはきれいに飛んでいるけれど,もうすぐ死んでしまうはかない命でしょう。本当に生きる力を持って生きる姿を見せてくれるのはこの毛虫よね,これはすごいわね,そう思って,よく見つめてごらんなさい。素晴らしい,かわいいと思えるでしょう」とおっしゃるのです。当時13歳です。見事な言葉です。
 1000年前の世界,こんな感覚をもった物語はどこにもありません。
 このお姫様は,私が今日お話しした研究をベースに考えていることを,そっくりそのままわかっていたのだと思います。ということは,子どもはわかっているということなのだと思います。たくさんの知識があるからわかるのではなく,自分が生きものであるという感覚をもっているからわかるのです。「?」と「!」を体の中に持っている子どもは,そのような存在なのです。13歳のお姫様はその代表選手,生命誌の祖先だと思って,私はいつも,「愛づる」ことを基本に物事を考えています。

終わりに――まど・みちおさんの「ぼくが ここに」  
終わりに――まど・みちおさんの「ぼくが ここに」
 まど・みちおさんはとてもすてきな詩人で,大好きです。そのまどさんご自身が,たくさん書かれている中でいちばん好きな詩は,「ぼくが ここに」だとおっしゃっています。この詩の終わりの部分に,「どんなものが どんなところに/いるときにも/その『いること』こそが/なににも まして/すばらしいこと として」とあります。生きているというのは,この「いること」こそだと思います。
 今日のお話は,まどさんから始めましたので,まどさんの詩で終わりたいと思います。長い時間お聞きいただき,ありがとうございました。