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 第7回大会のご報告

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あなたの中の「ことば」たち
 今年の特別講座は,「のはらうた」でおなじみ,詩人・童話作家の工藤直子先生の登場です。今回の講座をとても楽しみにされていたという先生。詩を通した子どもたちとの交流や詩作の方法,自身の原点などなど。「直子と詩」について存分に語られた120分間でした。

講座の流れを紹介します。
“いそいそ”来ました  
 
“いそいそ”来ました
 今日は「みんなと遊べそう」と思って,とっても楽しみで,“いそいそ”来たんです。
 この講座は,「知的・論理的な言葉を学ぶ」というよりも,「感覚的・感性的な言葉を楽しむ」というものにしたいと思っています。
 また,「今こそ聞いてもらいたい直子の作られ方」ということで,私がなぜ詩を作り始めたのか,どんなふうに詩を作っているのか,といったこともお話したいと思います。
あなたの中の「かまきりりゅうじ」たち  
 
 
あなたの中の「かまきりりゅうじ」たち
 
あなたの中の「かまきりりゅうじ」たち
 私は「オーサービジット」ということで,全国の小中学校へ伺うことがあるのですが,そのとき,「かまきりりゅうじ読みっこ大会」というのをよくやるんです。
 一人一人と自己紹介と握手をして,少し慣れてきたところで,どんどん詩の朗読をしていきます。まずは,詩の全体をはっきりと。作者名は少し声を落として,一字空いているところはすこし間をおいて。そして,あまり自分の考えを入れないように。こういう「書かれた文字に忠実な読み方」を,私は「活字読み」と呼んでいます。
 これを基本に,次は,「『かまきりりゅうじ』ってどんなかまきり?」ということを考えて読んでいくんです。
 「元気いっぱい一年生かまきり」なのか,「思春期真っただ中の中学生かまきり」なのか,想像する年齢や様子によって,読むときの声も,姿勢も全く違ってくるのがわかります。
 そして,ただ読み方を変えるだけではありません。想像が膨らめば,言葉だってアレンジしてもいいのです。「おじいちゃんだったら」「大阪のにいちゃんだったら」と,広がるイメージに合わせて,「語尾を変えてみる」「方言を使ってみる」など,いろいろ言葉を工夫していく。ここまでくると,詩はどんどんと子どもたちのものになってきます。こんなふうに私の詩をいろんな言葉と出会う「たたき台」にしてもらえると作者としては本望なのです。
芭蕉に書いてもらった私の作品道  
芭蕉に書いてもらった私の作品
 中には,読者が詩をこんなふうに扱ってもいいんだろうか,と思う人もいると思います。でも,私はいつも,「作品は書いた人だけのものなの?」と疑問に思っているんです。
 私たち人間は,人生の一瞬一瞬,さまざまな喜怒哀楽を遺跡のように積み重ねながら生きています。その積み重ねは,当然一人一人全く違うもの。であるなら,同じ「泣く」という反応でも,読者に起こる感情の内実は違っているのではないでしょうか。同じ詩であっても,受ける感動やその詩の価値は,読者によったものなのです。
 だから私は,「これはすごい,本当にその通りだ」と思った作品は,「○○さん〈作者〉に書いてもらった私の作品」と思うことにしているんです。谷川俊太郎さんでも,まど・みちおさんでも,松尾芭蕉だって。作品や言葉というのは,作者から発せられた形で凝り固まってしまうものではなく,それぞれの読者の中で生き物のように動いている,そんな存在なのではないでしょうか。
詩作のきっかけと初めての詩集  
 
 
詩作のきっかけと初めての詩集
 
詩作のきっかけと初めての詩集
 私が詩を作りはじめたのは中学生の頃。悩みや不安でいっぱいの思春期まっただ中でした。でも,幼いころから人一倍活発な性格だった私は,そんな気持ちをなかなか周りに漏らすことができなかった。そこで,抱えた思いを詩の形にしてノートに書き付けていったんです。これが私の詩作の始まりでした。
 以来,高校,大学と進学し,また,働くようになっても書き続け,詩の切れ端がどんどんとたまっていきました。思うように書けないけれど,そういう切れ端をいつかきちんと言葉にしたい。そう思って書き続けました。
 そして,そんな思いを「1962年」というタイトルの自家版詩集として形にしたんです。
 きっかけは,25歳の誕生日にしたある決意でした。コピーライターとして激務の毎日を送っていた私は,「はっと気付く」ようにしてその日を迎えました。このとき,人生の中で初めて「いったいこれから何年生きられるんだろう」と考えたんです。そして,「これからは自分の時間を,自分のやりたいことに使おう」と決めました。それで,取りかかったのが,たまった「切れ端」を本として仕上げることだったんです。
父の死と「心の杖」  
父の死と「心の杖」
 もう一つ,詩集を作る上で,大きなきっかけとなったのが,父の死でした。26歳の春,仕事を終えて深夜に帰宅した私を待っていたのは,アパートのドアに挟まれた「チチシス」という電報。葬儀は美しい花盛りの季節に執り行われましたが,心に残ったのは後悔の念ばかりでした。「なぜ伝えたい思いを伝えておかなかったのか。」そうした思いもその後の詩作にもつながっていったのです。
 また,そんな後悔や喪失感にさいなまれる私を「心の杖」となって支えてくれたのも詩でした。
 それは,大江健三郎の『日常生活の冒険』に取り上げられているゴッホの詩。この詩は,弟にあてた手紙の中で,友人のモーヴの死に際して記したものです。私はこの詩を繰り返し,繰り返し読み,「自分が思っている限りは,父ちゃんは生きているんだ」と考えて,ずっとおまじないにしてきたんです。
「好き」ということ  
「好き」ということ
 ちなみに,このゴッホの詩には,「日常生活の冒険」に収録されたものとは別の訳があります。岩波文庫の『ゴッホの手紙』に収録された,硲伊之助が訳したものです。こちらの訳を読んだとき,実は,最初に出会った訳とは全く違う印象を受けたんです。元が同じ詩で,内容が同じでも,言葉の選び方でイメージが大きく変わるんですね。
 あるワークショップで,私がいちばん好きな詩,北原白秋「薔薇二曲」を全て平仮名や片仮名にして読んでみるということをやってみました。私はやっぱり元の表記がいいと思ったけど,いっしょにワークショップをやった新沢としひこさんは,平仮名の方が好きだとおっしゃいました。
 こういう感覚は本当におもしろいものだな,と思います。それぞれ自分の世界のことですから,どちらがよいかとみんなで答えをひとつにするのがいい,というものではないでしょう。こういう,何だか理由は説明できないけれど好き,というような,感覚的・感性的なものを,詩を読むときには大切にしたいと思うんです。
尊敬しつつ,張り合いつつ  
 
 
尊敬しつつ,張り合いつつ
 
尊敬しつつ,張り合いつつさ
 一方で,詩は,そんな「感覚的・感性的」なものであるから,教えるのが難しいという声を伺うことがあります。私は,そんなとき,子供を先生にするイメージで遊んでみるのはどうかという提案をします。
 以前,朝日小学生新聞で「子どもがつくるのはらうた」という企画をやっていました。1年間で2万通の応募をいただきました。
 小学生のみんなが作った詩を読んで,まず感じたのは,子どもの頭がどれだけ柔らかいかということ。大人にはまねできない発想にあふれていました。また,散文と違う,詩ならではの持ち味,人の心を引っ掛ける釣り針のようなものを,自然に使って詩を作っていることにも驚きました。
 私が子どもの詩を読むときは,子どもの表現から,ほれぼれするようなところを見つけるようにしています。先生方も,子どもと一緒に詩を読んだり書いたりするときには大人であることを忘れて,すごい発想には敬意を抱きつつ,ときどき子どもに張り合うくらいの気持ちでいるといいかもしれません。あまり口を出さずに見守っていると,子どもたちはどんどん感性の言葉を出すようになってきます。子どもも先生も,みんなが一対一で詩に向かい合って,自分が好きなところや苦手なところを見つめていくことが大切なんだと思います。
大切にとってある手紙  
 
大切にとってある手紙
 
大切にとってある手紙
 子どもの発想を見守るというと,ある手紙を思い出します。大切な大切な手紙です。こういう講演会の終わりに,ある先生から声を掛けていただきました。担任をしている子どもから,手紙を預かったというんです。その子は,『のはらうた』に出てくる「おけらりょうた」が大好きで,毎日毎日その詩を読んでいるそうなんです。手紙の中にはこんな一節がありました。
 「おけらのように地球からだいててもらったらうれしいだろうなとおもいます。ちいさいおけらをだいているおおきな地球はやさしいだろうね。おかあさんと赤ちゃんみたいにおもいました。」
 私には,落ち込んだときにやる,ちょっとしたおまじないがあります。私は落ち込むとなかなか寝付けなくなってしまうんですが,そんなときに,「地球にだっこしてもらっている」というイメージを思い浮かべるんです。すごくよく効きます。赤ちゃんのとき,だっこされたのを思い返すのかもしれません。
 実は「おけらりょうた」の詩を作ったときも,とても寂しい気持ちになって,このおまじないのイメージをもちながら詩を作ったんです。それがそのまま,この子にわかってもらえた。どこにも言っていないのに,心の深いところでわかり合えた。そういう感じがして,このときは,「『のはらうた』書いててよかった」と心から思いました。
 たぶん声をかけてくださった先生も,この子に,この詩の読み方なんてのを細かく教えてはいないと思うんです。「おけらがすきなんだね」といって見守っていたのではないでしょうか。
なりきって作る  
なりきって作る
 こういう講演会で必ず聞かれるのが,「どうやって『のはらうた』を作っているんですか」という質問です。一言でいえば,「なりきって」作っています。
 例えば,すみれだったらどうか。私は,8歳くらいの,かわいらしい女の子になりきって作りました。高さ10センチくらいで茎が細くて,下を向いている。だから,姿勢としてはこんな感じでしょうか。(うつむいて,足を閉じてちょっと内股に。)足下に,お姫様のスカートのように葉があります。かわいい女の子だから,ほおに手をあてたりね。こうして,なりきってみると,例えば,視線が下を向いて,10センチくらいだから,下にアリがみえるな,とかわかることがあるんです。
 逆に,ひまわりだったら,茎が太くて葉っぱが大きい。だから,姿勢は気をつけで,はきはきと「こんにちは」と,いろんなものに挨拶しちゃう感じとか。
 「あおぞら」の詩は,男性だと思って作りました。地球を大事に大事に包み込んでいるイメージなんだけれど,自分は少し寂しい。そんな男性ならではの孤独感を詩にしたんです。そして,この詩を作ってみたら,あおぞらの恋人は虹なんじゃないかとということに気づいたんですね。「にじひめこ」というにじの女の子をこれ以前に書いていたんですが,「あおぞら」の詩を受けて,また,「にじひめこ」の詩を作りました。
 こんなふうに,『のはらうた』は,そのものに「なりきって」作っているんです。
「あいたくて」  
「あいたくて」
 講座の最後に一つ詩を朗読して,みなさんとお別れをしたいと思います。「あいたくて」という詩です。
 私は子どものころから,「この世の中に何のご用があって生まれて来たのだろう」とか,「何か役に立つことはできるだろうか」といった思いを,宿題のような感覚で抱きながら生きてきました。「あいたくて」は,そんな思いについて書いた詩です。
 この「宿題」について,今思っているのは,「地球ほめほめグループ」というのをできたらいいな,ということなんです。例えば,きれいな虹があれば,「きれいだな。こんな美しい虹をかけてくれて,地球さん,ありがとう。ここに生まれて本当によかったよ。」という感じで,地球をどんどん誉める。そんなふうに考える仲間がたくさんいたら素敵だなと思っています。もし,気が向いたら,みなさんも仲間になりませんか。

今日のまとめとして,「あいたくて」の朗読を聞いたら,あっという間に2時間が過ぎていました。参加者全員が自分の中の「ことば」について思いを深めた,充実の講座となりました。