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 第6回大会のご報告

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ことばの力
 重松先生は,これまで小説ではあまり取り上げられなかった学校での子供のいじめや不登校,家庭崩壊などの問題を描いて注目を浴びるほか,ルポルタージュ,時評,評論など小説以外のジャンルでの執筆活動も高い評価を受けていらっしゃいます。また,光村図書小学校国語教科書6年用に「カレーライス」を書き下ろされたのをはじめ,多くの作品が教科書教材として採用され,高く評価されています。本講演では,こうした子供の心を深く見つめ,ことばを紡いできた重松先生ならではの切り口で「ことばの力」についてお話しいただきます。
正解が多様にある時代  
 
 
 
 
 
正解が多様にある時代  
 
 
 
 
 
正解が多様にある時代
 
正解が多様にある時代
 小学校に僕が入学したときには子供たちは栄養が足りない,栄養をつけなきゃいけない,しかもその栄養ってのイコール総キロカロリー数。つまり,炭水化物ガンガン食えと。パンを食え,ご飯食べろというのが,昭和44年当時の正解だった。ところが,卒業するまでの間にそれが正解ではなくなったわけです。総キロカロリー数を落として,その代わり,ビタミンやカルシウムをバランスよく取らなきゃいけないっていうのが,正解になってしまった。正解は変わっていくわけです。例えば,昨日まではAが正解で,今度からBを正解にしますっていうなら,まだ話は簡単なわけです。一番困るのが,今まではAが正解だったけれども,今度からはAでもBでもいいよってこと。今までは車は左側通行だったけども,明日からはどっちでもいいですっていわれるのが,一番困ってしまうわけです。

 今,正解が変わっていくときっていうのは,AからBにガラッと変わるというよりも,今までしっかりあったはずの正解がどんどんばらけてしまって,この正解をルールと言ってもいい。今まではこんなルールがバシンとあって,非常に窮屈だったかもしれない。でも,今度からはワーッとばらけてしまったら,一瞬楽だけども,実はそれは非常に不安な状態でもあるわけです。
 昭和30年代40年代には,標準世帯っていう,考え方がありました。じゃあ今はどうなんだろうと。当時の標準という考え方は,今は標準ではなくなったんです。僕はそれはすごくいいことだと思っているんです。国語という科目の大事さを教えてくれる流れになってるなと。こう標準世帯があった時代に,当時1億総中流という言い方もありました。大きなみんなの中にいたら,すごく楽なんだ。それが普通,当たり前なんだからって。しかし,往々にして,あまりにもみんなが大きいと,そこから外れてしまったものに対する想像力とかまなざしが,どうしてもおよびづらくなるんです。

 ここで考えてほしいのは,皆さんが,明日,家電量販店にいってエアコンを買うとする。何か1つを最優先するとして考えてください。例えば省エネタイプを選んだ人が,お手入れ簡単タイプを選んだ人に対して,あなたは間違っているとは言えないわけです。結局,みんな正しい。みんなそれぞれに正しさがあって,絶対に自分の選んだ正しさは大事にしてほしい。でも,自分の選ばなかった正しさも認めてほしいと思います。
言葉は人にわかってもらうための手段  
 
言葉は人にわかってもらうための手段  
 
言葉は人にわかってもらうための手段
 
言葉は人にわかってもらうための手段
 最初の話に戻ると,僕たちの食べてきた給食は,最初は総カロリーが正解だった。そうなると,カツ丼とざるそばはどっちがカロリー高いかと聞かれたら,これはいくら文系の国語の先生だって間違えようがない。カツ丼ですよね。ざるそば何カロリー,カツ丼何カロリーって,数字ではっきりしていますから。でも,正解は総カロリーじゃないとなったとき,ざるそばとカツ丼はどっちがおいしいですかっていう質問になったら,もうこれは分からなくなります。そして,自分1人の中でも,きょうはガッツリ食べたいからカツ丼がおいしいと思う日もあれば,ちょっと体調が悪いから,ざるそばがおいしいと思う日だってあるわけなんです。そして,そのおいしさを表現する,人に伝える,分かってもらうっていうのは,これは,言葉以外にあり得ないんです。

 そうなると,大きな正解が1個だけ,圧倒的多数がいれば,問答無用ということがあります,問答,つまり会話をしなくていいんです。問答無用でだめってやつですね。でも,こういう時代になったら,問答有用なんです。問答しないと何も決められなくなっちゃう。 家電量販店に行ってたくさんエアコンが並んでるその前に立つと,もう一回迷うんです。やっぱりこっちのほうがいいかなぁって,これはもう保証します。絶対に迷う。そして,必ず後悔するんです。あっちのほうがよかったかもなぁって。でも,迷うことや,迷った挙げ句に失敗してしまって後悔すること。それを否定してしまうと,教育って成立するのだろうか。
国語の時間は割り切れないことを考える時間にしてあげたい  
国語の時間は割り切れないことを考える時間にしてあげたい
 小説で,あまりにもきれいなハッピーエンドって,ちょっとうそっぽく,あるいは単純になってしまう。何か,割り算の余りみたいな,割り切れないものが残るときに,それが余韻になるわけです。
 なんというか,余りが残ってしまうっていうものは,非常に不安定で,中途半端かもしれない。もっとはっきりと,いいもの悪いものをはっきり分けてくれ,あるいはもう早く決めてくれっていうのが,今の時代の風潮かもしれない。だからこそ,僕は国語の先生方には,先頭を切って,迷うこととか割り切れないこと,白黒つかないことはたくさんあるし,そして,迷うことというのは,不安で欲求不満がたまって,ストレスがたまるかもしれないけれども,そこを嫌がって人任せにしちゃったら,大きなところで後悔するよっていうことを伝えてほしいと思います。
 なにか国語の時間だけは,国語だけは間違ってもいいと思っているんです。考え中ですっていうのを信じてあげてほしいんです。


 またみなさんと,どこかでお目にかかれればうれしいと思います。どうもありがとうございました。