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 第5回大会のご報告

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まとめの言葉/「温故知新」の今日的意味
 本大会における大きなテーマである「古典」を中心に,まとめの言葉とします。
時代や地域を超えて,一つの作品について様々な人が解釈し,感じたことを交流することができる,古典のもつその可能性について提案します。
古典化とは  
古典化とは
 昨年度,国民読書年を記念した「日本読書学会」の記念講演が,外山滋比古氏を講師として行われました。
 「正しい読み,とは?」と題されたその講演の全てを端的に要約することはできませんが,外山氏によると,「"正しい意味"とは作者の意図にとどまるものであって,いわば主観的な存在あり,一人の主観にとどまるものを正しいかどうか判断することは誰にもできない。」ということです。その意味で,作者よりも読者の方が優位に立つ,というのが外山氏の一貫した主張でありました。
 十人十色の解釈が善意である限り,その全てが可能的なものであり,読者の諸説紛々の解釈の中をくぐり抜けてきて初めて,一つの作品は古典になります。古典は異論異説を恐れず,それどころか雪だるま式に大きくなるのです。
 キーワードである「古典化」ということを考えると,様々な人がその作品に対して様々なことを考え,表明する,そのこと自体が,一つの作品を古典にしていくために不可欠な過程です。そのような意味から,国語の授業あるいは古典の授業を捉え直していくことも,可能なのではないでしょうか。
交流と読書共同体  
交流と読書共同体
 皆さんがご周知のように,新しい学習指導要領では,「交流」ということが一つの中心的な内容に据えられている印象です。小学校・中学校・高等学校いずれにおきましても,交流は,「読書共同体」という概念を抜きにしては実現しない,重要な学習活動です。
 活動を前提として,読者としての子どもたちがより豊かに育っていくように,学習指導要領ではメッセージとして伝えていると受け取ることができますし,感想の交流を通じた古典化への参画も,重要なメッセージであると思われます。

 平成23年度の千葉県の入試問題では,「正法眼蔵随聞記」という古典が扱われました。そこでは,きちんと音読できるか,全体の意味を読み取れているか,といったような出題とともに,その古典作品中の「慈悲の心」を読み解くこと通して,自らが経験した「慈悲の心」について考えさせる出題があります。この「正法眼蔵随聞記」は,700年前のテキストであると同時に,今もテキストとなり得る光を指し示しているのではないでしょうか。
読書共同体の広がり

読書共同体の広がり
 
読書共同体の広がり
 先ほど,「読書共同体」について触れました。学級内・学校内は,もちろん「共同体」であるといえるでしょう。しかし,仮に,同じテキストを学んでいる人たちを読書共同体として可能な範囲と定義すると,漢字文化圏は,途方もない人数になります。
 論語の章句の数々や李白・杜甫などの唐詩は,私たちになじみ深い古典です。漢字文化圏の広がりに目を転じると,それらをめぐる読者の数も,膨大になるはずです。例を挙げると,李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵にゆくを送る」は台湾の主な中学校用教科書全てに掲載されています。また『論語』に注目するならば,「故きを温めて新しきを知れば,以て師たるべし」(為政)は,中国・台湾の教科書にも掲載されていますし,「学びて時に之を習ふ,亦よろこばしからずや」(学而),「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」(衛霊公)は,中国・台湾のみならず,韓国の教科書にも掲載されています。
 例えば,「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」という言葉において,「己の欲せざるところ」というのは,抽象度の高い言葉です。「己の欲せざるところ」という言葉から,どのようなことを想像するでしょうか。学級内あるいは学校内では,合意に達することができるかもしれません。しかし,中国・台湾・韓国の子どもたちと,「己の欲せざるところ」は果たして同じでしょうか。私はこのことに,非常に関心を持っています。まだ研究を始めたばかりで形にはなっていませんが,読書共同体の広がりを想定したうえで,そこにおける古典の指導を考えると,従来とは少し異なるスケールで,古典の学習が可能なのではないでしょうか。
 
古典のもつ可能性
 魅力や心情,あるいは「自分たちが今このように感じている」という気持ちについて,時代や地域がかけ離れ,相当な広がりを持つ読者の間で,どの程度の共通理解が得られるでしょう。それを想像しながら読む可能性が,古典にはあります。そう考えるならば,古典の授業は,これまでとは異なる存在になるのではないでしょうか。
 「交流」の範囲として想定されるのは,学級や学校ということになるでしょう。しかし,国境をこえた同世代もまた,同じ作品の読者であることを想像し,あるいはさらに「内容や表現の仕方について感想を交流する」ことが実現するならば,「一人一人の感じ方について違いのあること」への気づきという課題は,なおいっそう意味を増すように思われます。