line decor

 第5回大会のご報告

line decor

言葉の力で未来をひらく
 「自分の書いたものによって,百人に一人,千人に一人でもいい,きちんと自分の人生を見つめ,方向を考える子どもがいてくれればいいと思う。」そういう思いで表現を続けておられる浅田先生は,いちばん大切なのは想像力であり,想像力は読書によって涵養されると言われます。本講演では,ご自身の受けた言語教育や,読書するということ,また,中国の歴史とご自身の創作との関わりなどについてお話しいただきました。
人類史上最も幸福な時代の子どもとして育つ
 
人類史上最も幸福な時代の子どもとして育つ

 
人類史上最も幸福な時代の子どもとして育つ
 今を遡ること42年前,この慶應大学を受けに来ましたが,まさか,このたび演壇に立つとは思いませんでした。落ちることは分かっていました。英語の配点が倍だった。私は,英語がウイークポイントと知っていながら,受けた,という実績がほしかったのです。
 さて,本日は「言葉の力で未来をひらく」という演題ですが,私がどのような言語環境で育ち,国語教育を受けてきたかをお話しすればいいのだなと思って参りました。
 1951年生まれです。団塊よりちょっと下,学園闘争が下火になった頃,そして高度成長期の申し子,たぶん,人類史上最も幸福な子どもといえるのではないでしょうか。少し上だと食べ物の不自由があった,少し下だと勉強,勉強と言われた。私らは記憶にあるのは,家で本を読んでいるとおじいさんやおばあさんに近眼になるとか肺病になるとか言って叱られた。つまり遊んでいればよかったという,実に幸せな,その後ほぼバブル崩壊まで,国家のつまづきもなく,背丈がずっと伸びてきた。そういう時代に育ちました。
プライドが致命傷になったり,コンプレックスが財産になったりする
 
プライドが致命傷になったり,コンプレックスが財産になったりする
 
プライドが致命傷になったり,コンプレックスが財産になったりする
 私の受けた一風変わった言語教育について申しあげます。
 生まれは,中野区で妙に下町っぽい鍋屋横丁でした。祖母も父もちゃきちゃきの江戸弁でしゃべっていた。これが学校にいって矯正された。東京都で方言を標準語化する「ネサヨ運動」,方言を使うと顔に×(ばってん)をつけられる。学校で言葉がでなくて,いつも×だらけでした。
 後に考えましたが,方言はその地方の文化で,方言がすたれると地方の気性がすたれてしまう。東京が明らかでした。東京の語尾には東京人のきっぷのよさや潔さがあった。むしろ全国の学校で方言教育をすべきではないでしょうか。言葉は文化です。
 当時としては珍しい私立に行っていました。小学校一年から英語がありましたが,それがプラスになったかというと,全く役に立たなかった挙句,慶應大学の200点で粉砕することになった。小学校で中学のリーダーぐらいは分かっている。中学にいくと,クラス50人の中で私だけが手を挙げる。オォーッという声があがるが,これがくせもので,その後たたりました。プライドが大切かというと致命傷になったり,コンプレックスが自分の財産になったりします。私は,その時の優越感がずっとたたって,先日国際ペン大会においても,各国の代表の中で,私の後ろにだけ通訳がいたのです。
 私の話は私の経験ですが,この中から何か参考にしてもらえればと思います。
小説が想像力を涵養する  
小説が想像力を涵養する
 中学に入った途端に俄然,小説に目覚めてしまいました。私はとにかく旅行に行く時は,絶対に読みきれない量の本がかばんに入っていないと不安でたまらないのです。これが活字中毒といわれる人の末期的症状ですね。
 子どもに本を読ませるコツで,「これ!」と思うのは,読書を勉強にしないこと。そうすると,勉強の好きな子しか本を読まなくなる。江戸川乱歩を懐中電灯で押入れの中,というのは王道なのです。江戸川乱歩は,悪い本と思われていた,でも想像力を養う。想像力の涵養です。大人になるとハウツー本を読むけれど,役に立たないでしょう。だって,片付けのできる人は,「断捨離」を読まない。できないから,読む。一番よいのは小説。小説は,これからどうなるか,この人はどんな人なのか,文字でしか書いてないから,想像するしかない。読めば読むほど想像力が豊かになる。想像力は人生の中の起爆力になるのです。
私の読書時間




私の読書時間
 
私の読書時間
 私は一日一冊読んでいます。説明しますと,私は原稿を書いたら声に出して読みます。そうしないと句読点の位置がわからない。そのスピードが400字詰め原稿用紙で一時間に100枚です。「鉄道員(ぽっぽや)」「地下鉄(メトロ)に乗って」が400枚,するとこれらは,4時間で一冊の本が読めるということになる。
 ご自分がどれくらいの読書時間をもっているかを考えれば,どれだけ本を読めるか計算できることになりますね。私は早寝,早起きなのです。これは年のせいではないですよ。(笑)だから執筆時間は午前中,それから日が暮れるまでが読書時間。テレビも見ます。そのかわり,夜は早く眠くなってしまうのです。私はお酒を飲まないので,夜が長いのです。飲酒しないといいですよ。その時間を読書にあてることができますから。
 そんなわけで不思議な読書三昧をすごしてきました。図書館に折口信夫全集があって,いまだに図書カードに私の名前しかない。中学生としては不思議な趣味ですが,図書館には置いておいたほうがいい。中学生が自分では買えないような,これは誰も読まないだろうというような本は置いておいたほうがよい。50年に一人読めばいいんです。千人に一人,万人に一人読めばいい。恵まれた読書環境というのはそういうものです。



古い訳こそ原文の心を写し取っている
 
古い訳こそ原文の心を写し取っている
 古典の話をしましょう。私は,漢文に初めて触れた時の驚きを忘れません。漢文は中国語ですが,それを読み下した時の美しさに感動いたしました。そして,中国の歴史にのめりこむようになりました。私の作品には長いものがありますが,自分の興味の賜物であり,自分の愛した学問の分野であるのです。世界で最も美しい文章は,陶淵明,世界で最も面白い小説は司馬遷の「史記」だと思います。多くの本を読んできた結果,それだと思うのです。
 漢文の読み下しは時代によっていろいろ出てきますが,私は古いものが美しいと思っています。「帰去来兮」の「かえんなん,いざ」この「兮(ケイ)」の字の解釈を「いざ」とした,日本語では言いようのないこの言葉を読み下したすばらしさ,魂はその通り。そして,「かえりなん」より「かえんなん」のほうが美しいと思います。シェークスピアの訳も古い方が美しい。正しく学術的に文法的にやろうとすると,きれいじゃなくなる。原文にある心というものを写し取るというのは,正確な文法より実は大切で,それを生かしているのが古い訳だと思う。
 吉川幸次郎の「陶淵明伝」。これは,非常に正しい陶淵明の解釈だと思っています。まだお読みでなければぜひご参考にしていただきたい。



中国の高名な詩人はすべて政治家だった
 
中国の高名な詩人はすべて政治家だった
 というわけで私は中学生の時に漢文に目覚めました。ところがあるとき壁に突き当たります。南宋の詩人で陸游(りくゆう)という人がいる。この人は銀河の詩人,天河の詩人とよばれ,星空の叙景詩を詠むが,それと全く関係ない激烈な政治詩も詠んでいる。作風があまりに違うので同名の詩人が二人いるのではないかと思っていました。
 なぜ,同じ作者がこんなに違う作風なのかと疑問をもっていたが,答えは簡単です。詩人はほとんど全員というくらい政治家だったのです。官吏登用試験に「科挙」があり,三つの試験科目の一つが詩作でした。そのために科挙を通ろうとしたらよい詩を作らなければならなかった。だから官吏が全員詩人だった。政治家が全員詩人とは麗しい話である。皆さんもご存知の高名な詩人は,ほとんど政治家。しかも地方にいて少し暇な官吏に高名な詩人が多い。
 つまり,中国の文学を知ろうとするなら,中国の歴史を知らなければならないのです。「蒼穹の昴」シリーズでも,官吏の個性を描くためには,その人の文才を描かないと,人間を描いたことにならないのです。漢詩がおもしろいなら,中国の歴史を学ばなければならないぞ,と自分に対する命題ができてしまいました。そして,宮崎市定という文章がすばらしく上手な歴史学者の全集を一から読み始めたのです。

手書きの原稿は珍しいものなのですね 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手書きの原稿は珍しいものなのですね
 
手書きの原稿は珍しいものなのですね
 小説が発表され出した時に,もしかすると自分が勉強していたことが小説にならないだろうかと思うようになりました。普通の人は新人賞をとって華々しくデビューするが,私は違いました。城を攻める感じでいうと大手からではなく,搦め手から忍び込んだ感じです。いつデビューしたかわからない。しかも,デビュー作は,「極道お笑い小説」というレッテルをはられてしまいまして,中国近代史を舞台にした作品など書かせてもらえないですね。それでも,吉川新人賞をとった時点で作家としての認知をされまして,「蒼穹の昴」を一年半くらいで書き上げました。
 小説家は手で原稿を書いているのかと思ったら,原稿用紙というものが既になくなっていたのです。ですから手書きの「蒼穹の昴」1800枚をダンボールに入れて講談社にもっていきました。私は今でもパソコンはできないし,FAXもこわごわ送っているくらいです。だから,その頃は原稿を直接持って行きました。洋服屋をしておりましたので,仕事用の台車に載せて持っていくと,「納品は裏にまわれ」と言われました。そんなものかと思い裏口から入りました。廊下ですれちがう編集者がみな珍しそうに見る。手書き原稿が珍しかったんですね。それに「蒼穹の昴」なんてタイトル誰も読めないですから。その作品が今も続き,これからも続いていくことになるのです。

 だから,むだな読書はないなと思いました。当たるを幸いに,お金が入るとみんな本に変えちゃう。馬券にも変わりましたけど。お金が入ると神田にいってみんな買ってくる。でも,本は,手に取る時が読みたい時で,家に持ってくるとなんでこんな本を買ったのかなということになってしまう。私の書斎には「なんでこんな本が?」という本がある。雑読ですね。でも本には無駄がない感じがする。無駄というのはつまらない小説ですね。1500円も払って読み終わった途端に投げつけたくなるものもありますね。パソコンの弊害もあるでしょう。機械の力を使って書いちゃいました,という小説が多い。
 ある程度の作家,かつて文学少年であり,覚悟があり,志がある作家ならそんなに変なものは出てこないが,コミックの代用品のような小説が多い昨今ではあります。



浅田先生への質疑応答の時間をいただきました
  (浅田先生への質疑応答の時間をいただきました。)
最近の直木賞の傾向について教えてください。
 最近は選考委員も若い世代に変わってきているので選考基準も変わってきているが,私の主張は「文学性」です。
 芥川賞が純文学,直木賞が大衆文学といわれていますが,その区分けが曖昧なのです。長編か短編かならば分かりやすい。作家の思考回路が違うのです。だからこの区分けは分かる。芥川賞と直木賞は曖昧。だって純文学の反対は不純な文学ということになるし,大衆文学の逆は非大衆文学ということになる。芸術は大衆のためにあり,大衆性のない芸術は二流です。ぱっと見て分かる,ぱっと聞いてきれいという,教養・学問・性別にかかわらずいいといえるものが一流の芸術作品。なぜなら頭で考えるのではなく心で受けとめるものが芸術作品だからです。非大衆的なものが芸術作品あろうはずがないというのが私の持論なので,あの区分けは「?」ということになります。
 大手の出版社には必ず純文学と大衆文学の二つの編集部が存在します。これは変な区分けですが,今さら私がどうこう言っても始まらない。唯一どうこういった人がいます。山本周五郎。この区分けがきにいらんので直木賞を受賞しないと言いました。私もこの区分けは気に入らないのですが「いただきます」と言ってしまいました。(笑)
 純文学が真の文学だから子どもに読ませるというのは間違いです。が,いい文学とよくない文学というのはある。だから,先生方がこれはいい作品だと思ったものを子どもたちに与えてください。


浅田先生への質疑応答の時間をいただきました
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
浅田先生への質疑応答の時間をいただきました
 
本を読まない子たちに,本を読むようになるアドバイスがあったら教えてほしいです。
 それは,読書を勉強だと思わせないことです。自分の感覚を思い出すと,今の子がゲームをしている感覚と似ています。だから,ゲームをやる感覚に小説を引き下げること。つまらない本は嫌になる,面白い本にどのくらい子どもが巡り合うかですね。  私は,小泉八雲の「怪談」をお薦めしています。小学生でも十分です。子どもに背伸びをさせることが大事。背伸びして食いついてくるのです。子ども用に書いてあるものではなくて,文庫などで出ているものがいいですね。例えば「耳なし芳一」には,ありとあらゆる小説のエッセンスがつまっている。民話を脚色したものですが,民話伝説はドラマの宝庫。それを小説として脚色した八雲の目のつけどころがよかった。八雲の書いたものには説教がましいところがない。本人がそういうの嫌いだから,だから純粋なストーリーが浮かび上がってくる。私も折に触れて読み返しています。ニュートラルな文学者の姿が見えるので。
 子どもが自分で読むのが嫌なら読み聞かせてもいいです。そのうち自分で読み始めるでしょう。


最後に
 私たちは大昔サルでありました。サルがなぜ人間になれたか。理由は二つ。一つは火を使うようになった。もう一つは言葉によって意思を疎通できるようになった。火は科学によって受け継がれています。言葉は,私や先生方が,言葉の聖火をサルの時代からずっと持って走っているわけです。人間を人間たらしめるゆえん。人間はサルではないという証拠が言葉であります。ですから,言葉を大切にして教育をなさっていただきたいと思います。 ありがとうございました。