line decor

 第4回大会のご報告

line decor

「こえ」と「ことば」のレッスン
魅力的な「こえ」とはどういう声でしょうか?僕は雑誌などで「魅力的な『こえ』を持つにはどうしたらいいですか?」という質問がくるたびに,「『魅力的なメイクとは何ですか』というような大雑把な質問をしますか?」と問い返します。魅力的な「こえ」へのアプローチは具体的なものです。魅力的な「こえ」を獲得するために,「こえ」を五つの具体的な要素に分けて,一つ一つを詳しく解説していきます。
「こえ」と「からだ」を使ったワークショップとは? 
 
 
 
 
 「こえ」と「からだ」を使ったワークショップとは?
 
「こえ」と「からだ」を使ったワークショップとは?
こんにちは。
〔会場から,「こんにちは〜」〕
やっぱり,先生たちだと声が返ってきていいですね(笑)。
僕は基本的に,「こえ」と「からだ」を使ったワークショップをしながら,表現をしましょうというのをやるんです。毎月定期的にやっているのには,プロの俳優から,学校の演劇部の顧問に押し付けられたんだけど,どうしていいか途方に暮れていますっていう先生とか,いろんな大人が来ます。
僕は,子ども向けのワークショップ,小学校は特にもう,理屈通じないので断ってるんですけど,杉並区の富士見小学校というところで劇作家協会がタイアップして,表現のための活動というか,1年ずっとやって最後,舞台を発表するっていうのを組んでやろうというのを,もう6年ぐらい前に始めてしまったことがあって。僕は,まあ,プロのワークショップリーダーというか,ワークショッパーなので,それはやるんですけど,最終的には,ざまあみろっていうふうにねじ伏せるんですけど。最初,「なんだこの不思議なおやじは?」という目線をですね,最後,まとわりついてもちぎっては投げるぐらいにしてやって帰るんですけど,たぶん3倍ぐらいたいへんだと思うんですよね,小学校のワークショップって。
その最初の年は,劇作家協会も威信をかけて投入したので,詩の時間は谷川俊太郎先生,歌の時間は小椋佳先生,演技の時間は,渡辺えりさんと吉田日出子さん,それでシアターゲームっていうゲームの時間は,僕が行ったんですけど,さすがに2年目,3年目以降は,あんまり総力戦を投入するのは無理だってことになりまして。
その富士見小は今でもやっているんですけど,ずいぶん楽になりましたよ。僕は,1年に1回呼ばれる異邦人というか,部外者なので,子どもたちは,1年目は,何やっているかわからなかったんですけど,2年目,要は,その1年目の発表会を5年生が見て,4年生が見て,3年生が見て,だんだん「ああ,おもしろいな」とか思いはじめるんですね。今はもう,小学校1年生のときから,6年生の発表会を見ている子たちなので,わりと待つ準備ができているというか,つまり,こえとからだを使って表現する発表会が最後にあるんだって分かると,大人も同じですが,やっぱりやってくれるんですね。
こえの「教養」という考え方
 
こえの「教養」という考え方
 
こえの「教養」という考え方
基本的には僕は,全部,「教養」〔板書〕という考え方,それは別に偏差値の高い大学を出ているとかではなくて,そのことをよく知っていて,よく使えるっていうスタンスで教養という言い方をしています。実は,からだにも,感情にも,言葉にも,こえにも,教養が高い人・低い人があるっていうふうに思っています。例えば,プロポーションがいいとかとはまったく別で,自分のからだのことをよく知っていて,からだを使える人のことを,からだの教養が高いっていうふうによぼうと思っています。スポーツ選手がいつも故障ばかりしていて,どんなに運動神経がよくても,からだをどこかいつも痛めていたりすると,それはたぶんからだの教養が高くないだろうというふうに思っているんですね。
今日は「ことばと学びをひらく会」ですから,言葉でいうと,まず,こえの教養っていうものがあるだろうと思っています。よく「こえの要素って何?」〔板書〕っていう質問から入っていくんですけど,例えば,先生方でいうと入学式とか卒業式とかでナイスなスピーチをしようと思うと,まあ,一般の人だと結婚式とかですが,必ず内容を,コンテンツを求めて本屋さんに行って,「結婚式のナイスなスピーチ」みたいな内容を語りたがるんだけど,実は僕たちにとって,そのメッセージが感動的かどうかってのは,内容じゃなくて,そのしゃべり方が,ほぼ8割ぐらいを占めているんですよ。
僕らはある種,世間と呼ばれる基本的に以心伝心でいる世界にいるので,要は,こんなに素敵な内容だから,どんなに言い方が下手だろうが,どんなに言い方が拙劣だろうが,どんなに言い方が,独り言になっていようが,きっと伝わるはずだ,伝わってほしいっていう信仰が心の中にあるんだけど,それは残念ながら,もうないので。つまり,同じ文化の中に生きている,もう村落共同体の社会ではないので。
「世間」に向けての言葉,「社会」に向けての言葉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「世間」に向けての言葉,「社会」に向けての言葉
 
「世間」に向けての言葉,「社会」に向けての言葉
今日は,この話をしないんですけど……,ちょっとだけしゃべろうかな。
村落共同体にかつては生きていたじゃないですか。それで,村のいちばんのテーマって,水をどう田んぼに引いていくかって利水だったんです。誰かが無茶なことをして,水が途中で止まってしまったら終わるので,基本的に村落は,水というものを中心にまとまらざるをえなかったんですね。で,村の掟に背く者,つまり,そいつが勝手に,独自に水の引き方を変えてしまうと,そこから下のたんぼが全部,死滅していくわけですから,村の掟に背くってことは,村人を殺すってことにもなるので,基本的にこれは,一神教とほぼ同じ強さ,制裁をもっているわけですね。
モーセの十戒って,「わたし以外の神を信じるな」。っていうのが第1条なんですね。つまり,契約としてわたし以外の神を信じない限り,お前の生活を守りましょうっていう,間違いなくセーフティネットなわけです。それで,日本はそれが村だったし,武家社会だったし,商家だったんですね。要は,村に生まれている限りは,掟に背かない限り一生,めんどうをみましょう。と。それが明治になって,企業に引き継がれて,終身雇用,「ここにいる限りは一生面倒をみますよ。」と。それから,年功序列,「とにかく上の人間の話を聞きなさいよ。」って続いてきたわけですね。僕らは世間に生きていたので,世間というのは,どんなにきついことを言っても同じ村だったり,同じ武家社会だったり,同じ会社なので,「あなたにとって無茶なことは言いませんよ」という社会なわけですよ。だから,基本的に僕らは,断るということはありえなかったわけです。
だけど今,このグローバルスタンダードの中で,「世間」じゃなくて,「社会」に半分生きなきゃいけなくなっている。社会っていうのは,世間と違って,利益関係のない存在なんですね。よく団体旅行とかで,おばちゃんが「こっちこっち! ヨシコさん,ヨシコさん,空いてるわよ,ここ空いてますよ」って言って,あとから来た人が呆然としながら見てるのがあるじゃないですか。でも,空いてますよ,と言ってるこのおばちゃんは,ひどい人なんじゃなくて,自分の世間を守っているだけだから,自分の世間以外の社会は関係ないんですよ。
僕らが世間に生きていた名残りは,「なんとかさん,評判悪いよ」とかって言われて,「誰が言ってんの?」って,「職場のみんな,言ってるわよ」って言われたときに,頭の中で『職場のみんな,言ってるわけねぇじゃねえって。じゃ,職場に40人いたら40人全員,一人ひとりアンケート取って回るからな』と,内心思うんだけど,なんとなく胸がチクッとくるわけ。それはつまり,世間に生きていた名残りなんです。
欧米の人に,「You have a bad reputation recentiy(お前,評判悪いよ,最近)」と言うと,「Who said?(誰が言ってんだ)」と言う。「Everybody said」なんて言ったら,「Everybody!Ha ha (笑い) Joking!」って。「全員なんて言うわけねえじゃねえか」って思ってる。それは,全員ってのは,ほんとに全部の人間だと思っているから。でも僕たちは,全員って言った瞬間に,職場の利害関係がある人たち全員と思い込むところがある。
これは実は,こえとことばに話があるのでしゃべってるんですけど,つまり僕たちは,世間に向けての言葉に関しては,ものすごくいっぱい持っているわけです。阿吽の呼吸とかね。世間内言語に関しては,ものすごく僕らは長けているんだけど,一歩,社会言語っていう,まったく知らない人に対してどうしゃべっていいかに関しては,ほんとに下手なんですね。その,世間というものじゃなくて社会的な言語というものに対して,どう獲得していくかってのは,すごくやっかいで,難しい話なのね。だって昔は,学校の先生に対して子どもも親も,無条件で世間という認識をもってくれたじゃないですか。基本的に先生の言うことは聞けよって。でも,最近,世間って発想のない,社会としてやってくる親って普通にいるじゃないですか。だからモンスターペアレンツとか呼ばれるのは,基本的に社会として入ってくるんだよね。
「世間」に向けての言葉,「社会」に向けての言葉   結局,また戻るんですけど,僕らは世間に向けてのコミュニケーション能力は,すごく高いんです。世間に一回なると,阿吽の呼吸と呼ばれるやつで読めるようになってくる。でも,その世間はどんどん壊れかけていて,社会に向けてどう発信していくかっていうか,価値を共有していない人たちとどうコミュニケーションしていくかっていうことを問われているんですね。基本的にコンテンツがよければ,必ずどんな言い方をしても通じるんだってのは,全部,世間のなかの関係性なわけ。その世間的な枠組がない人に向けて,どうやっていくかっていうときに,もちろんコンテンツも,内容も大事なんだけど,内容と同じぐらい,こえとかことばの教養といわれるアプローチをしていかないとダメなんじゃないかってとこに帰ってくるんです。