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 第2回大会のご報告

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シンポジウム/新学習指導要領「国語」の可能性 〜「メディア」をキーワードに〜
例えば、「お礼の気持ちを伝えるならば電子メールよりは手紙がよい」という論題でディベートを行う場合、参加する子どもたちは自らの主張を展開するために必要な要件や、相手の主張を聞き取るポイントなどを学びます。しかし、目標の有無にかかわらず、子どもたちは同時に「メディア(媒体)」の特性についても考察を深め、選択された手紙、また電子メールというメディアそれ自体もまた、何らかのメッセージを体現するものとして理解することにもなるでしょう。これは、わずか一例にすぎませんが、新しい学習指導要領「国語」において取り上げられたさまざまな指導事項を、メディアというキーワードでとらえ返してみるならば、これからの国語教育にはどのような可能性が開かれるのでしょうか。それをジャンルとしての物語、活動としての「みる」こと、そしてことばの機能などの視点から探ります。(甲斐雄一郎先生)
シンポジウムの様子  
学習指導要領に対しては、さまざまなアプローチが考えられ、その切り口の一つとして「メディア」があります。それに着目することで、だれもが国語教育の中で無意識のうちに実践してきたことに気づくし、見失いがちだった価値を発見することにつながるのではないか、というのが高木会長の着想であり、今回のシンポジウムのテーマであります。三人のシンポジストの方々に、まず、「メディア」に対して、自分ならこのようなアプローチを考える、ということを述べていただきます。
(※文中の「資料」は、シンポジウム用に当日配布されたものです。)
言語も一つの「メディア」(高木まさき先生)  
言語も一つの「メディア」(高木まさき先生)
新聞や雑誌、プレゼンテーションソフトやインターネットなど、いわゆる「メディア」が氾濫する中で、言語も一つのメディアと見なすなら、日本語と英語、音声と文字、また、古典というジャンルなども「メディア」と見なすことができるでしょう。「何かを伝えるもの」「人と人との関係をなかだちしていくもの」をすべてメディアととらえると、新しいものも見えてくるのではないでしょうか。「言語もメディアである」ということに立ち返りながら、国語科全体がメディアでもある、そのことを通してどんなことが考えられるかをそれぞれ専門の立場から語ってもらいたいというのが今回のシンポジウムのねらいなのです。
高木まさき先生  
メディア重視の背景には、紀要55ページのUに挙げたように、海外の調査、文化審答申、言語力育成協力者会議などがあります。そして、同じくVに、「メディアは国語の学習に何をもたらすか」ということについて、三点にまとめてみました。学習指導要領の指導事項には「メディア」という言葉はありませんが、「解説」の中には具体的な方向が示されています。本、新聞・雑誌、昔話や神話・伝承、図表や絵、写真、漢字と仮名、共通語と方言など、また、朗読劇や群読など。具体的には紀要の56ページWからをご覧いただきたいのですが、あらためてメディアという角度から学習指導要領を見直したときにいろいろな可能性が感じられる、あるいはどんな可能性があるか、ということを探りたいということからこのテーマを提示させてもらいました。
メディアは「情報の乗り物」(藤森裕治先生)  
メディアは「情報の乗り物」(藤森裕治先生)
私は、メディアを「記号とシンボルのシステム」ととらえていますが、学生などには「情報の乗り物」という言い方をしております。その特性によってさまざまな乗り物があるわけですが、言葉も広い意味で乗り物の一つです。そして、国語教育において言葉とともに、映像を含む非連続テキストも情報の乗り物であり、言葉の教育と切り離せないものとして意識していくことになるでしょう。
「煮詰まる」の意味は?
 
シンポジウムの様子
 
非連続テキストから読み取れること
【資料出典】平成19年度「国語に関する世論調査」の結果について(文化庁)
「みる」ことに関して、現行教科書の設問を調べてみると、約一割は、「みて、考える」ことを行っています(資料表1)。資料図1(左グラフ)は、「煮詰まる」の意味を各世代にきいた結果のグラフですが、これが折れ線グラフであることの意味など、こういうものをもとに話したり、聞いたりすることが大事なのです。資料図2は、村野四郎の「鹿」という詩を文字テキストと絵画テキストで示したものです。それぞれよいところと、示すことで制限されてしまうものがあります。言葉とともにある形で、言葉と映像のそれぞれがもっている情報の乗り物としての特性の違いをはっきり認識しながらクリティカルに向かい合い、理解したり発信したりすることを考えていきたいと思います。しかし、このきつい教育課程の中では、とても「みること・みせること」などやれない、というご意見もあるかと思いますが、その点については後ほどお話しいたします。

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文字情報としての言葉からどんなメッセージを受け取るか(森山卓郎先生)  
文字情報としての言葉からどんなメッセージを受け取るか(森山卓郎先生)
言葉としての表現と、伝わるメッセージは違うものであると思います。メッセージとして、何を受け取るかがメディアとしての「言語」を考えるときには重要でしょう。例えば、歌詞。文字情報として表現されたものをどう音として復元していくか。また、どういう文字を使うかも大きなポイントです。同じ「かなしい」でも、「悲しい」「哀しい」などと使い分けることによってメッセージは違ってくるでしょう(資料3-1)。
森山卓郎先生
 
シンポジストの先生方
 
言語表現はどう「意味」解釈するかで世界の広がりが出てきます(資料3-2「かっこう」を会場全員で斉唱)。「かっこう」の「しずかに」の部分ですが、これには、かっこうが鳴いている、作者が言っている、の二説あります。言葉は手がかりでしかなく、文学作品でも、新聞報道などの情報の伝達でも、言語がもっているメッセージを解読したり解釈したりする必要があるのです。また、言葉がもっている表現のおもしろさを解読できるかも重要です。「六月( )きれいな風の吹くことよ」という俳句で、( )に何が入るでしょう。正解は「を」です。「に」でも「は」でもない。助詞が変わることによって、六月が大きな空間であるかのように思い浮かべられるのです。言葉を対象化することにより、どういう表現を使っているのか、あるいは、他の表現とどう違うか比べることによって表現のもっている世界が広がります。これがメディアとしての「言語」がもっているおもしろさであり、深まりなのです。
フロアからの質問  
フロアからの質問
学校現場では、言語としてのメディアは受け止められやすいが、映像、絵画、写真などの読み取りには抵抗がある。文学教材に関連して「みる」ことをどうとらえたらよいか教えてほしい。
甲斐雄一郎先生  
三人のシンポジストの方から、多様なメディアの可能性、多様なメディアをクリティカルに読み取っていく力、それが考える力となってメッセージを受け取る力に戻っていく、ということについて話していただきました。
言葉を中心として、そこから拡散していくという話であるが、フロアからの質問もまじえ、さらに論を進めていただきます。
会場内の様子
文字だけでなく、他の環境も読み取っていくことが大事(森山先生)  
文字だけでなく、他の環境も読み取っていくことが大事 (森山先生)
言葉に対して、それがどういう表現か、自分はどういうふうに表現していくのか、というメディアとしての言語のあり方を考えていきたいと思います。それから、言葉がどういう環境で使われるかも考えたいことです。例えば、「ごんぎつね」の挿絵で、ごんの持っている栗は、いががとってある。そんなところからごんの思いを読み取ることができる。文字だけではなく、他の環境を読み取っていくことも大事なことです。どのようにメッセージを伝えようとしているのか、さまざまな情報を総合的に関連させてメッセージを受け取りたいですね。
藤森先生  
国語の授業の中の映像リテラシー(藤森先生)
文章を読んで楽しむ場面に挿絵を示すことで言葉から想像することがそがれないでしょうか(資料図3)。つまり、場合によっては絵を使わない意味での「映像リテラシー」、「みる」ことの乗り物に乗せないということもあり得るのではないでしょうか。(フロアからの質問に対して)実は、先生方は国語の授業の中でこのように映像を扱っているのです。「この映像にふれることが言葉の学習にどういう意味があるのか」という問い直しが求められてくるでしょう。ある映像は、場面は限定するが、ストーリーは自由です。「こう書いてあるから、こう読む」ではなく、「もしもこの部分をこういうふうに想像したならば、この場面はどう読むことになるか」という読み方をしていただきたい。文学の読み取りでは、文字テキストからだけではつかみきれない情報の空白を自分たちの経験や想像で補填することができます。そのとき挿絵(映像)が有効に機能する可能性をもっている。先生方は、その可能性を自覚しつつ、子どもたちに言葉の学習として知らず知らずのうちに指導されているはずなのです。
思考を可視化する試みとしてのバタフライ・マップ  
思考を可視化する試みとしての
バタフライ・マップ
最後に、視覚を言葉といっしょにとりいれていくと、表現していくときにも有効であると思います。バタフライ・マップは思考のプロセスを可視化していこうという試みです。映像化という特性をきちんと見きわめてこれからの言葉の学習に委ねていくということが今のところの私の結論です。

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「速い情報」と「遅い情報」(高木先生)  
「速い情報」と「遅い情報」(高木先生)
PISAのような実用的な言語能力、新聞なら写真と見出しとかは、わかりやすく人に伝えるということで「速い情報」といえます。物語は、人の心に立ち止まって、どんなふうに人の心が傷ついたり、ある行動をとってしまったり、といった「遅い情報」を伝えます。「お手紙」という物語では、かえるくんが、お手紙をがまくんに出したことを言葉で伝え、そのあと、かたつむりくんが、お手紙を届けてくれるまで、四日間いっしょに待っていたのです。物語、文学は、言葉という速い情報ではなく、体感されるメッセージが大事なものであり、そういうものにこだわって、人の心を伝えようと努力しているメディアではないでしょうか。速い情報が飛びかう世の中だからこそ、遅い情報としての文学が大事になるのです。
高木先生  
「少年の日の思い出」を例にしますと、あの作品には、エーミール側の物語もあったはずです。「語り」にしばられると私たちはそのことを忘れてしまう。単純な物語化に抗していく力をつけていかなければなりません。逆の視点から見てみるのも大事で、「書きかえ」も有効でしょう。文学は、語り手が一方的に語っていきます。それを逆転させたり、別の立場から見たりすることも文学を通してできることですし、やるべきでしょう。その意味で、文学をメディアとしてみることの価値があると思います。
まとめ・「メディア」をキーワードに(甲斐雄一郎先生)  
まとめ
「メディア」をキーワードに(甲斐雄一郎先生)
これまで、「メディア」をキーワードに語っていただきました。「情報を盛りこむ器がメディアである」ということで共通した議論がありましたし、また、文学というジャンルを一つのメディアとしてとらえることの意味を共有できたのではないでしょうか。
内田伸子先生のご講演でも、「日本の子どもたちは時系列で物事を表現する」とありましたが、物語の基本的な構造を「全体の説明−事件発生−人物が何かを考え、チャレンジをする−その結果がでる−自分なりの意味づけをする」という流れと考えると、日本の子どもたちがなじんでいる思考の様式がそういうふうな「メディア」であるといことに自覚的であれば、別の側からの見方を受け継ぐことができるのではないでしょうか。
「メディア」という乗り物にこだわると、普段の国語教室の営みにも新たな意味づけができるのではないでしょうか。例えば、平和をめぐる教材でいうならば、3年「ちいちゃんのかげおくり」から受け取れる情報があり、6年「平和を築くとりで」から受け取れる情報があります。私たちが作品の問題として受け取っていることをメディアの問題として受け取ると新しい着想が、教材研究にいくつも生まれてくると思います。
 
今回のシンポジウムは、新学習指導要領を「メディア」という観点から読み込むとどういう可能性が切りひらかれるかという挑戦的な試みでありました。フロアの皆さんには、疑問や違和感もあろうかとは思いますが、それらを含みこみながら、新しい国語教室を明るい方へ開いていく一歩となれば幸いです。論点を一部分提示することができ、そして、共有することができたということをもってまとめとしたいと思います。
シンポジウムの様子